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行為の単位

ご飯を食べたあとの食器。

夢をみたあとの丸まった布団。

後で読もうと保存した無数のリンク。

 

これまでのぼくの行いは全て阿頼耶識に流れている、と人はいうけれど

現実に積み重なっているのは、これまでぼくが行わなかったことだった。

 

もちろん、現実に積み重なっているのは

・食器でご飯を食べたこと

・布団で夢をみたこと

・リンクを保存したこと

ただそれだけでしかないけれど、

ぼくたちが認識している分節化された一つの行為は、

「現象」という分子を構成する原子のようなものかもしれない。

 

何が言いたいかというと、「現象」は世界を変えてはならない、

「現象」は世界に対する作用として閉じていなければならない、

という信念があるように思うんだ。

 

その信念が発生する理由付けはどうでもいいけれど、

現象によって世界が変化すると、世界を知るための

視点・よるべを失って、何もわからなくなって、困るから。

裏から言えば、ある行動を繰り返し可能な形式によって取り扱うことは、

行動に学習可能性・再現性を与えるおかげで、経験による効率化ができて強いから。

 

そのことが、行動によって世界の変化した部分を、元に戻させようとする力として表れる。

 

あまりそういう、目に見えない力に囚われてもしょうがないけど、

持続可能な生活ではそういうことになる。

 

結局のところ、ぼくたちが行為だと信じて口にする言葉の多く・食事とか睡眠とかは、

世界に対して閉じて作用する「現象」を意味しているというよりは、

食べっぱなし、眠りっぱなしの瞬間の全体だけを指していて、

そうした世界を変える行為にこそ名前がついている。

 

 

ぼくの日常の行動全てが、気づいていないだけで、

人生の余韻のための清算でしかなかったら。

自覚のないままに、選択した行為によって変わった世界を、

元に戻すためだけに今も生きているとしたら。

 

今日はなんだか昔のゲームをやりたい気がして、結局やってないけれど

溜まりにたまった「現象」が、ぼくを駆り立てているような気がして

スマホの中に溜まってるウェブのリンクを断捨離した。